卒制展の期間中は、2月中旬とは思えないほど寒さがゆるんでいた。おかげでほかほかと暖かな気分で出向くことができた。
■写真の方が良く見える
今年はきっちり撮影した。会場は明るめだったけれど、ストロボ使ったから写真はいたってクリアに撮れていた。
会場スナップとして撮影したので、個々の作品の細部までは見えない。あとで感じたことだが、実際の展示よりも、写真の方が落ち着いた感じがする。実際の会場の印象はもっとずっと「軽い」雰囲気がする。
■会場
この会場は、窓側半分がガラス張りだから、落ち着かない。
もともとがワークショップ用の部屋で、一応展示もできますという部屋なのです。
でも、旧長崎屋の4階でおこなわれた、昨年の卒制展の異様さと比べれば、数段まとまり感があった。
昨年の会場は、地下駐車場のような雰囲気で、あきらかに選択ミスだった。低い天井にむきだしの蛍光灯。だだっ広いスペースにポツン、ポツンと置かれていた作品… 昨年の展示会場の雰囲気をひと言でいえば「寂しさ」だった(昨年の学生には、とにかくエネルギーがあった。ありすぎて、だからそれが上滑りして、広さを求めて自滅してしまったのです)。
■
全体的雰囲気と、
それぞれの作品からのイメージ
それに対して今年の会場のイメージは、「軽さ+イージー」かな。
第一印象として美術展示の感じがしない。
平面作品はほとんどが印刷物あるいは印刷もどきの感じがしてしまう。油絵のような工芸性がないから重厚感と壁面への密着感がない。垂直な壁からいつはがれ落ちるかもしれないあやうさがある。使っている額縁が、ポスター展やイラスト展につかう安ものだから、反ったりゆがんだりして、いかにも軽い感じがした。
安ものだから、反ったりゆがんだりして、いかにも軽い感じがした。
室内の立体作品は、室内遊具と巨大なトイレットペーパー(B)さんといった感じ。
円形段ボール組みに青・赤ぬった、(Hさん)の立体作品は、そういう目的の作品だろうから、当然といえばとうぜんなのだが、素材の段ボールがいかにも安っぽい。
屋外に展示されていた2点の鉄。(F)くんのは構造材むきだしでビルの工事現場、(G)さんのは鉄くずやのスクラップ、サブ展示室の(K)さんは工芸材料店のバーゲンセール。これらの3点は、料理方法を知らないのに適当に作ってしまった無国籍料理といった感じ。素材が剥き出しで生焼けだからどうにもいただけない。
従来型の一般的な油絵展が、スーツとドレスを身につけてちょっと暗めなレストランでコース料理を待っている感じだとすると、この展示会場では、マクドナルドに入って、80円のハンバーガーを食べているときのような感じがした。「お持ち帰りですか?」「いや、食べていく」「ポテトはいかがですか?「いらない、コーラのSつけて」… 。ひとりでテーブル席に座り、壁にくっついている水彩画のような版画のような印刷物を眺めながら、これでお昼ごはんをすましちゃうのは、なんか物足りないけれど…といったような感じ…。
■問題点の認識
ところで、この文章を、ここまで読んだ人は、ずいぶん酷い(ひどい)言い方してるじゃないのって思われたでしょうね。でも、たぶん彼らは、忠告されなければ解らないだろうから書いたのですね。
あのですね。私がここで言わんとしてることは、学生の作品展示を、従来型の美術展覧会の展示と比較して、ただけなしているのではないのです。「今日的な美術作品」の展示には、いかなる方法が考えられるのか、どのようにすることが望ましいのか?という「問題を認識する必要がある」ということなのです。
だって、100号の油絵にしても、フレームのあるなし、額縁の値段のランクによっても同じ作品が全く異なる見え方をすることは誰でもご存じでしょう。あるいはきちっとした台座に乗せられた胸像彫刻が、床に置かれて展示されていたとしたら情けない見え方しかしないはずです。だとすると、プリントアウトされたCG作品や、溶断・溶接された無塗装の作品には、それらをいかに効果的に展示するのかというノウハウが考えられなくてはならないはずです。
作品における、軽さや素材感を生かすのか隠すのか? 額縁や台座をつけるのか付けないのか? 完成度を重視するのか実験度を示すのか? あるいは卒業制作展なのだから、研究方法の発表としての展示に位置づけるなど、選択肢があるわけだが、それらの配慮や工夫なしに、とにかく作ることばかりに専念してしまっている。例年のことですけれど、作品展示が全く改善されていないのです。
とりわけ、好き勝手なテーマと手法で十数名が作った作品を一つの会場にセットするわけだから、そこには相当な工夫が必要とされるわけです。12月に実施しているアートハウスという毎年の展示機会は、展示方法や展覧会設営のためのノウハウ習得のためのトレーニングでもあったはずなのですが、学習が深化していかないのです。そこが一番の問題なのです。
■じゃあ、どうしたら良いのか?
いま私たちが考えたり作ったりしているモノ、目指しているモノは「いわゆる美術品」ではなく、「作品」であるということをまず自覚する必要があるのです。この違いを明確にしておかないと話がはじまらない。すでに価値観が確立し、多くの人々の間に共通認識ができあがっているモノが「いわゆる美術品」です。それに対して、作っている自分にもよくわからないんだけれど、こうしたら良いのだろうという何かの意志に動かされて作りたくて作っているモノ、それが「作品」です。「Art
Works」に対して、単なる「Works」にすぎないのです。
作者が可能なことは、「Works」を作ることであって、「Art
Works」は、Worksが作られた後で別の人々によって認定されてはじめて「Art
Works」になりうるわけですよね。その点で、ウオーホルの「私の生み出すモノはすべてアートだ」と言った言葉は、彼にはふさわしくても一般論とはいえないわけです。
昨年・今年のほとんどの卒制作品の材料や手法は、従来の美術品とは異なり、工業生産品や商業品に類するものでしょう。したがって、それらのモノの展示方法は、もはや美術館などにはないはずです。都市の街中のブティックやショップのウインドウに求めるべきでしょう。最近の学生展示を見る際に、どうにも居心地の悪さを感じていましたが、内容と展示方法のミスマッチが、その理由だろうと思います。
一流のセンスをもったデザイナーやプランナーの手によるレイアウトやウインドウディスプレーを十分に味わったり研究したりする経験がないと、今日的な素材と内容の作品の展示方法がわからないのは仕方ないのです。でも、三越やグッチの店内ディスプレーやレイアウトを展示方法のベースに位置づけることは重要な視点だと思いますよ。だって、アートってのは、その時代や社会の中から生まれ落ちたものなんですから。
作品作りの「制作研究」と、発表方法としての「展示ノウハウ」を平行して考えていけるためにはそれなりの努力とトレーニングが必要です。あわただしい卒業制作展にそれらの両立をのぞむこと自体が無理難題というべきかもしれませんね。
■ まとめ
来年度に向けていま言っておきます。1年前には展示会場は決定し予約し、責任分担を明確にしておくこと。半年前には展示方針とスペースの割ふりをしておくこと。これだけはやっておいた方がよいと思いますではありますが、今年の卒業生も、ソレナリニがんばってやってきたことは認めようではありませんか。(…優柔不断で全方位外交的な、思いやり評価ダナ)
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