WEB-ATELIER通信
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 ●過去のコラム                                                                      コラム更新日2005/01/22

20052 今月は豪華2本立てです


 
卒業シーズンにて

正月特別編

またまた地震だ!
 1月18日深夜、ベットにいたらユラユラと来た。数日前にもフラリと来たし、いつものことだと思いきや、その直後に震度5がグラグラと来た。この40日間に3回目の揺れだった。釧路の地震は震度の割には実被害は少ない。だから、地震の度にかかってくる、「だいじょうぶ?…」との見舞い電話に対して… 「イヤ、いつもすいませんネ、どうってことナイんです…」と、こちらが逆に恐縮してしまう程なんだけど。
 ところで、けっこうな被害があった約12年前の釧路沖地震の際には、さすがにタマげた。…ドドドッ… 水中で泳いでいるような感覚で身動きできない地震は初めての体験だった。おかげで大学の4階建ての旧校舎もボロボロになった。しかし地震にめげずに、徹夜で机や椅子を体育館へ移動して、翌日のセンター試験をやり遂げた功績により、急遽、現在の研究棟A・B新築の予算が付いたのだった…
 こうして、地震に関してけっこうしつこく書いてることには訳がある。前記の地震は、実はかつて彫塑の前任者であった長谷川先生の退官記念会の前日のできごとだったのです。
当然、前夜には各地からの美術科の卒業生が釧路に集結していたのです。当日の会話では「…わざわざ地震を体験しに来たような…」
 
2度あることは何とやら…。2月19日予定の福井先生の退官記念会には、何もなきことを切に祈ります。

なぜ、卒業制作が出来ないのか??
 
毎年、1月末日は卒業論文・制作の締切日です。しかし、例年ほとんどの学生がギリギリまで卒業制作ができないのです。なぜなんだろうか?なぜもっと気楽に卒業制作が出来ないのか? 私は、これまでズットこのことになやんできましたが、最近になってその理由がやっと理解できました。卒業制作を特殊な事象だと考えていたからわかりにくかったようなのです。
 10年程前、美術科のカリキュラムの見直しを行ったときに卒制指導を単位化した。だからそれ以後の学生には3年生後期−4年生前期−4年生後期と、約15ヶ月にわたり個別指導が行われるようになった。私の場合は授業週には、基本的に毎週1回指導する。
しかし、それだけやってもスムーズに制作が進まない学生が多いのです。いったいなぜなのか?と悩んでたのです。
 もちろん、例年一人二人はサッサと仕上げて涼しい顔してる学生もいるけれど、やっぱり一番多いのは、行きつ戻りつ四苦八苦して締め切りギリギリタイプ。
 そして「おまえなんか卒業させないッ」「もう一年残るか?授業料高いぞッ」と脅したり、あるいは、どうにもお手上げ状態になって、しかたなく「こうしてナ…ああして…ナ、ホレ…できただろ」あやつり人形のごとく、でっち上げさせるタイプが、必ず若干名いる。
 しかし、他教科・他専攻の卒業論文の作成状況も五十歩百歩のようだ。ギリギリタイプ・あやつり人形タイプが結構いるらしい。さて、うちの学生たちはなぜそうなってしまうのか? そこには、指導方法の問題と学生の能力の問題と、
2つの問題点があると思うのですヨ。
 うちの学校には、できるだけ学生を卒業させてあげましょうという指導の前提がある。いわばオモイヤリ指導である。それが学生に甘えを生じさせてしまって
いることが理由の一つだろう。
 私ごとですが、私は卒論と卒制の両方が必要だったけれど、両方とも4年の秋にたった1回しか指導された記憶がないのです。卒論においては、テーマを報告したら「古いことをやるんだね」の一言だけだった。しかも、「君らはこれからもズット論文を書いていくことになるんだからしっかり書いてネ」だって。
 これが私の卒論指導の全てでした。ずいぶんひどい指導だったな。でも、これだけ突き放されたせいで自主性は育ちましたけれどもね。
 法人化により、各大学に経営努力が要求されるようになったのだから、うちの学校も、ユルユルの出口をちと引き締めて品質保障すれば、たぶん四分の1の学生は卒業できないだろう。指導もラクになるし、授業料もたっぷりかせげるしね。
 さて、もう一つの原因は、学生の能力の問題です。しかし、卒業制作ができないと考えるのではなく「
全てができない」のだと考えることが正解だと思います。
 レポートをスイスイこなしていた学生は、卒業制作も問題なく自力でこなしてしまう。しかし、提出書類を出し忘れたり、ガイダンスを欠席したりして教務係から始末書かかされたり、図書館からの返却掲示にいつも名前を連ねていた人は、やっぱり卒業制作も綱渡りだ。彼らの共通点は、
(1)一度言われただけでは理解できない。
(2)物事すべての処理能力が低い。
(3)自力で方法論を確立できない。
(4)めんどくさがる。
(5)スイマセン、ゴメンナサイを連発する。
 要するに「ダラシナイ人間」なのです。
 こうしたルーズな物事の考え方や、方法論の不在、そして
もって生まれたダラシナサは、そうやすやすとは改善できないのです。15ヶ月の間の卒業制作指導では、これらの根深い病を治療することは不可能でしょう。そこにこそ卒制指導の奥深さが潜んでいるのですナ。
 来年度からの卒制指導に際しては、まず最初に、この文章を読ませるところから始めることにしたい。

いまどきの年賀状
 ところで、正月といえば年賀状ですね。しかし、5年ほど前から卒業生や学生からの年賀状がめっきり減ってしまいました。この現状について一言…。
 今年は、在学生から届いた年賀状は
わずか一通のみでした。当然彼らは毎年、卒業していきますが、在学中に年賀状が届かない学生からは、卒業後も年賀状を受け取ることは、まずありません。これまで、卒業後の住所確認は年賀状が頼りでした。したがって、いまや誰がどこへいったのやら、さっぱり分からなくなってしまいすごく残念です。思うにこうした傾向は携帯電話の普及と関連しているのではないのでしょうか。連絡手段は声とメールが一体化した携帯電話に集約されて、郵便物による意思伝達という存在自体が希薄になってしまったのでしょう。「…いまさら年賀状なんて…ヘッ」ということになるのでしょう。

私もかつて「年賀状なんて…」と、親戚以外への年賀状を2年間出さないでいた年がありました。しかしそのおかげで多くの友人の連絡先を失ってしまいました。とりわけ卒業後の数年間は、誰もが住所を頻繁に移動しますので、年賀状はとても大切な住所確認の手段です。住所が変わっても1年以内ならばなんとか移動先へも届きますが、2年も経ると転居先不明となって返却されてしまいます。私は、その過去をすごく反省し年賀状は大切だと痛感しているから、あえてここに書いた次第です。「年賀状は出しましょう」。

2月中旬には、今年の卒業制作をUPする予定です。お楽しみにネ。

       <追加>
長谷川先生のことが出てきたので、ついでに
錦谷先生のことにも触れときます。錦や先生は、退官後、7年間札幌の某短大へ単身赴任してましたが、その後帰釧しました。2年前でしたか、突然私の研究室に
見えました。そのときのやり取りです。
「新井さん、ワープロの解説書ってのは、どこかに売ってないか知らないかい、しばらく使わなかったから、使い方を忘れちゃったんだ」
「もうワープロを使う人は少ないから、無いんじゃないですか、でも、ワープロで何するんですか?」
「これまで集めたアイヌ文様の資料をまとめようと思ってるんだよ」
「いやア、それは頑張っておられるんですねエ」
「そうだよ、そうでもしなきゃ、ヒマすぎて死んじゃうヨ」
(もうしんでもかまわ… )
「100満両なら売ってないかな?」
「…?…100満両にも無いんじゃないですか(100満ボルトでしょ)」
 … とか言いながら帰って行かれた。
2時間ぐらいその後に電話あり、
「いやあ、帰りがけに大学の廊下で(英語の)小山内さんに会ってサ、もう使わないからあげますって、説明書つきのワープロを貰ったよ。これで何とかなりそうだ」
「それは良かったですね」

         
おしまい

銀閣寺の砂

 

 

京のゆどうふ

 

 

ポルシェにのった

 

 

 

 

赤プリに泊まった

 

 

名古屋キャッスル

 

 

 

浅草へ初参り

 

 

■日テレの鏡餅

 

 

 

中華街

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


銀閣寺
へ行ったのはこれが8回目ぐらい。今回初めて銀沙灘の整地作業を見た。
6人ほどの職人さんがおそろしいほど手際よく進めていく。
尋ねてみたところ、
嵐がなければ通常は月に1度だけ。普通の水を吹きかけてるだけ、とのことでした。

12月28日9時半だったから、この作業は、月末の9時ごろからやってるんでしょうね。

貴重な場面をみることができました。

 

 




京都といえばゆどうふだけれど、今回初めて食べてみた。

南禅寺の奥丹という一番の老舗へ行った。
タクシーの運ちゃんに「奥丹は混んでるかな?」と聞いたところ、「奥丹?ああ、最近はがらがらだね」との返事だった。

老舗だけあって、何かしらの風情はあったけど、ふつうのとうふだった。ゆどうふは、うまいまずいのレベルで語るものではないな。

話のネタに一度は食してみたいですね

 

 





元日に、愛知の実家にいたら、いとこのドラ息子が88年式のポルシェに乗ってやってきた。
田舎道を4Km程乗せてもらった。ビュンと出るスタート時の加重に、
「…ジェットコースターみたい(娘)」
降りてから
「燃費はどれくらいナノ?(私)」
「…そんなこと聞く人いないヨ(イトコ)」

 

 

 

 

 

回は、ウエスティン都H(京都)赤坂プリンスH(東京:写真)に泊まった。
いずれも超がつく一流Hで、とても気持ちが良かった。

都Hは、飛行機のパックもの。そして赤プリは、インターネットで予約した「びっくり2食付パック」10、500円
夕食は紀尾井の和食会席だった。上品なお味でした。

年末年始や、オフシーズンには、リッチなホテルライフが、驚くほどお安く楽しめることもあるようだ。

 

 



名古屋で一番のホテルはココ。
最上階のレストランから名古屋城が真正面に見える(写真上)。

さぞや、お高いカナと思ったが、6種類から選べる2,000円のワンプレートランチがあった。
軍艦のような巨大な皿に盛られたミックスフライは食べきれなかった。

12月29日ということもあったのか、昼食時だったのに、広々としたレストランには他に客がいなかった。食べ放題のホカホカパンをつまみながら一時間以上のんびりでき幸せだった。

 

 



 

 

 

北海道に来てからは一度も初参りへは行ってなかった。せっかくだから浅草へ初参りした
身動きとれない仲見世とおり
店屋に入ったら、なかなか出てこれないほどの混雑。

これじゃ偽札使われてもわからんゾ

 

 

 

 

 

 

新橋にできた日テレだが、もうひとつひねりが足りない。お台場のフジテレビのようなエンターテイメント性がないからだろうか。

 

 

 

 


 

 

直通の地下鉄ができたおかげで中華街がぐっと身近になった。

ところで、中華街のグッズ類は、どうしてあんなにも安いのか?

 

 

 

 

 

 

私は、この人形が一番好きなのです

おそらく今回の旅行が、親子3人旅行の最後だろう。楽しい8日間だった。

 

 

 

 

 

 
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